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パソコンにも徐々に慣れてきましたので、今年はデザインを変えてみました !

登山 : 山綾会



集 合:小田急線 開成駅 9:00   
コース:
開成駅前 9:00発 … 10:04 善栄寺 … 10:06 二宮尊徳生誕地 … 11:03 小田原アリーナ<昼食 11:40発> … 12:09
狩川橋 … 12:35 酒匂川スポーツ広場 … 13:04 酒匂川河口 … 山王原公園 … 14:00 小田原駅・解散
歩行時間:約4時間30分 
参加者:21名 (そのうち男性7名)

 外は暗く寒いなかをバス停に急ぎましたが、6:30分のバスが、信号待ちをしている間に目の前を通り過ぎてしまいました。8分後のバスに乗り、長後駅に向かいました。

 本日のリーダー・サブリーダーはFujimoさんとOhtaさんでした。

 冬晴れで上着を脱げないくらいの寒さを感じた1日でしたが、青空を背景に雪を抱いた美しい富士山を振返りながら、酒匂川河口を目指して元気に歩き、解散場所の小田原駅には予定より1時間30分も早く到着しました。

 途中で二宮尊徳の生誕地やお墓のある善栄寺を見学して酒匂川堤に戻り、小田急アリーナに立ち寄って昼食をとりました。広々とした河川敷にはアリーナ内にある小田原教育委員会スポーツ課が管理している多種のスポーツのできる広場があり、休憩中の子供たちがサッカーに興じたり、少年野球場駐車場近くでは、たくさんの応援の若いご父母が昼食の準備中のところを、足を止めて眺めたりしながら歩き続けました。帰宅して万歩計を見ますと、朝起きてから帰宅するまでの数字は、なんと!「32,980歩」を記録していました。

 私はこれまであまり橋の構造には関心を持たず、どの橋も特殊なものでない限り似たり寄ったりだと思っていました。ところが、今回の2度の酒匂川流域歩きで写真に収めてみますと、同じものが1つもないことに気が付きました。橋は立派な建造物で、大がかりな橋の構造にはデザインも含め、技術者・施工者がたの並々ならぬ情熱がそそがれているものなのだと感じいりました。これからは橋を通過するたびに、個性的な橋の魅力に引かれていく予感がします。

8:56 
再び「開成駅」に戻ってきました。

 8:57 
またマンション前をお借りして
  準備体操をさせていただきました。

 9:04
いくらも歩かないうちに
朝市が目に飛び込んできて、
主婦の本能が目覚めました

 9:05 
おみかんを購入した人が
多かったです。

9:09 「開成堰」

すぐ酒匂川にでました。
ここから右方向に進みました。

 9:20 
ゆったりと流れる
川を見ながら歩きました
。 

9:27 杉並木
この辺が「霞提(かすみてい)」に
なっていたようです。 
 
竹田信玄が考案したと言われている。
「霞提」の説明ですが、読みにくいので
左側に記載しました。

9:33 富士山と手前は矢倉岳

 9:41 「
報徳橋」

 9:45 
報徳橋」を振返って

9:46 
二宮尊徳の植えた「松苗碑」
記載されている文字は左に記載しました。

 9:47 
「二宮尊徳の生涯」と「二宮先生遺跡案内図」  

 9:54
 酒匂川からいったん離れて
東栢山(かやま)の街に入る。前方に富士の姿

9:59 村社 栢山神社 (かやまじんじゃ)」
 
「二宮尊徳の遺跡巡り 小田原 時の回廊」より
 
10:00  
「二宮先生総本家屋敷跡」と
写真では暗くて見にくいですが右側に「二宮先生総本家屋敷跡碑」があります。

「総本家が絶えた後 尊徳は敷地内に竹を育て 再興資金にした」のだそうです。 
 
10:04 小田原「善栄寺」の山門
 
「善栄寺本堂」
 
創建七百数十年の曹洞宗の古刹 酒匂川のたびたびの氾濫で寺社が荒廃する 
北条氏康夫人が再興する 二宮尊徳一家の菩提寺

金次郎16歳の時伯父宅で夜読書中、「行燈の油を無駄にするな」と言われ、
菜種を撒き、翌年たくさんの油を収穫した。その頃の刻苦勉励の姿

二宮金次郎「少年勉学の像」

10:10 
二宮総本家」の墓

「北条氏康夫人」の墓碑

1856年10月20日栃木県今市の報徳役所で70歳で没す。 お墓は「星顕山如来寺」にある。
実弟が遺髪と遺歯を10月26日に抱いて帰り、「二宮総本家」の墓地に埋葬した。  

 10:06 小田原 尊徳記念館
「二宮先生誕生地」の碑

 尊徳記念館 「二宮尊徳先生 回村の像」 
 
尊徳記念館 「二宮尊徳誕生の家(文は左に記載する)と二宮尊徳先生家 平面図」の看板
  
       尊徳記念館 「二宮尊徳誕生の家」 この縁側で集合写真を撮りました

 私はここにたどり着く2〜30分前から空腹を覚え、これまで経験したことがない状態(目がちらちらし、歩く気力がなくなりつつあった)になりました。この縁側で飢えを解消し、元気を取り戻しました。これって「年齢」のなせるわざなのでしょうか。これから気を付けなければ…。
 
尊徳記念館 二宮尊徳誕生の家の内部

10:51 富士山を見ながら再び
酒匂川への道に戻ります
 
10:56 「富士道橋」方面へ

10:57 「富士道橋」下を進みました。

11:03 「小田急アリーナ」へ 

11:05〜11:40 小田急アリーナの内と外で自由に昼食タイム
朝市のおみかんをデザートにいただきました。子供たちが伸び伸びと走り回っていました。
 
16面もあるメインアリーナの
バドミントンコート
 
11:51  酒匂川沿いの道に戻って

 11:48  前方に見えるのは「富士見橋」
 
11:59  前方に見えるのは「小田急厚木道路鉄橋」
 
12:09 狩川橋」へ
 
12:09 狩川橋」

12:09 「狩川橋」を渡って
 
12:10 「狩川橋」から下流を眺める。
 
12:14 「扇町テニスコート」脇を通って
 
12:21  酒匂川の「飯泉橋」へ
戻ってきました。

12:25 「飯泉取水堰」
飯泉取水堰は、酒匂川の河口から約2.3km上流の地点にあり、左岸の取水口から1日最大1,564,300m3の原水を取水します。
神奈川県内広域水道企業団HPより 
 
12:26 飯泉取水堰管理施設」

12:28 AMAZON」 
右手にインターネットで よく利用する
アマゾン物流センターがありました。 

12:29 「東海道新幹線橋梁」 

 12:34 手前が「東海道線鉄橋」と電車 
後ろ側が「新幹線の鉄橋」
 
12:50 酒匂川スポーツ広場のソフトボール
or 少年野球場と「小田原大橋

 12:35 酒匂川スポーツ広場のサッカー場と「小田原大橋」 
  

  12:57 「酒匂橋」の下を歩く。

12:58 「酒匂橋」 

 13:01 最後の橋「西湘大橋」を見て

 13:02  「下水道放流水路」を渡りました。
結構水が多くてちょっとドキドキしました。 
  
13:04 「西湘大橋」と酒匂川河口の東側 湘南方面が見えるのだそうです

 13:04 酒匂川河口の西側に見えているのは箱根連山だそうです。 
ここで集合写真を撮りました。
 
13:05 私「あれはなに?」
 
  仲間の女性「パラグライダーよ。」
 
13:16 男性メンバー「どこのエンジンを使ってますか?」
持ち主「イタリア製エンジンです。」
 
13:17 「出発の時間で〜す。」 
13:21 
私「あのたくさんいる鳥はカモメ?(いちおう海を見ていましたから)、 いや、白くないから鳩かしら?」
Hanaさん「山鳩です。山鳩は別名キジバトとも呼ばれています。キジバトの巣は大変粗末な巣です。… ドバトは家で飼っていた鳩が野生化したもので…。ヒヨドリの歩き方は…独特で…、いろいろな…姿勢が…です。」
………またまた山綾会ですごい女性に出あいました!こういうこともあるので、山歩きは大変ですけどやめられないのです! 私は花もですけど、鳥となるとなおさらのこと、さっぱり区別がつきません。情けないことに、会話に入っていくこともできませんでした。
 

13:33 小田原駅を目指して
ひたすら歩きました。 
 
13:33 「2級河川:さんのう川」
1級河川と2級河川の違いってなに?
調べたものを左に記載しました。

ちなみに酒匂川も2級河川でした。

 13:34 「山王神社」前を通過して、14:00ぴったりに小田原駅に到着しました。

information店舗情報

     霞提(かすみてい)
 「霞提」は、竹田信玄が考案したと言われているところから、信玄提(しんげんづつみ)とも呼ばれ、優れた治水技術として多くの急流河川に造られたもので、堤防のところどころを切って二重にし、その間を水田にするなど遊水機能などを持たせています。 江戸時代には、酒匂川にもたくさんの霞提が築かれましたが、治水技術の発達とともに姿を消しました。現在では、この場所の他、足柄大橋付近の右岸や、小田原アリーナ付近で見ることができます。 

      霞提の解説
@ 酒匂川に大水が出たとき、堤防の切れ間から水が逆流してきます。
A 二重になった堤防の間の水田などで水が貯えられます。
B 酒匂川の水位が下がると貯えられた水は酒匂川に戻っていきます。 


      二宮尊徳の碑
 先生若年の頃松苗二百本植ヱラレシ
 所ナリト傳フル
 坂口提ニシテ推譲ノ徳高キ先生ノ
 嫩芽ヲ見ルノ心地ス
  昭和御大典當年
  櫻井村年團東栢山(かやま)支部

     

二宮尊徳誕生の家
  二宮尊徳は、天明7年(1787)七月二三日この家で誕生した。この家の最初の建築年月は明確でないが、おそらく尊徳の祖父銀右衛門が兄の万兵衛から分家して、その南隣に建てたもので、それは、寛保二年(1742)か、それより数年前と推定される。 尊徳の父利右衛門が銀右衛門から家督を譲られた頃の二宮家は、二町三反六畝余の田畑を所有する中流農家で、この家は、江戸時代の中流農民の住宅の典型的なものということができる。
 尊徳が書いた「田畑請戻之事」によると、父母をなくして一家離散の悲境に陥った際に、居宅、家財、諸道具、衣類まで売り払って金にかえたとあるので、その時この家は人手に渡ったものと思われる。
 昭和三四年、尊徳記念館建設第二期事業として、当時この家を所有していた渡部家から譲渡を受け、昭和三五年九月二〇日、横浜国立大学教授工学博士大岡実氏の指導によって、この誕生地に元の姿で復元した。
 昭和三八年、神奈川県重要文化財に指定されている。
       小田原市教育委員会


   酒匂川スポーツ広場
 
 


 1級河川と2級河川の違いってなに?
 国土交通省HPより:

 河川は上流部から小さな河川が合流し、この合流を繰り返しながら徐々に海へ向かうにしたがい、大きな河川となっていきます。これら一群の河川を合わせた単位を「水系」と呼んでいます。
 1965年に施行された河川法によって、国土保全上又は国民経済上特に重要な水系で政令で指定されたものを「一級水系」と呼んでいます。一級水系に係る河川のうち河川法による管理を行う必要があり、国土交通大臣が指定(区間を限定)した河川が「一級河川」です。「二級河川」一級水系以外の水系で公共の利害に重要な関係があるものに係る河川で、河川法による管理を行う必要があり、都道府県知事が指定(区間を限定)した河川です。
 一級河川と二級河川とは、水系が違うので、同じ水系内に一級河川と二級河川が併存することはありません。このため埼玉県や滋賀県などには、二級河川がありません。一般的には、一級河川の方が規模も大きく、洪水等による災害が発生した場合の被害が大きいといえます。
 一級河川、二級河川のほか、市町村長が指定した「準用河川」があります。これら以外の河川は「普通河川」とよばれていますが、これは河川法上の河川ではありません。  ところで、一級水系の定義で、「国土保全上」とは、洪水、高潮等の災害が発生した場合に想定される人命、財産等の被害が大きく、この防止が国家的な見知から治水上重要であることを意味し、「国民経済上」とは、上水道、工業用水道、灌漑、発電など河川の利用の影響度が一地方の経済にとどまらず、国家的に見て大きいものであることを意味します。このように治水上又は利水上特に重要な水系については、国において管理することが望ましいため、一級水系に指定されます。
 二級河川の定義で、「公共の利害」とは、国土保全上又は国民経済上という利害の及ぼす影響について量的な差異があるのみで、質的な差異はありません。 河川は上流部から小さな河川が合流し、この合流を繰り返しながら徐々に海へ向かう にしたが い、大きな河川となっていきます。これら一群の河川を合わせた単位を「水系」といっています。

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