2016年1月-2017年X月
甲州街道を歩く

○○○○○○○○○です。

 今朝の天気予報では、曇りのち夕方ごろから雨ということでしたが、藤野駅スタート時からパラパラ雨が降りだしてきました。ひどい降りには一度もなりませんでしたが、1日中降ったりやんだりの繰り返しという感じのお天気でした。
 朝のミーティングでは、「本日のコースは大変長いコースで、上野原の町を出ると田舎道が続き、これまでのように中に入って見学する宿場もないので、歩き続けることを覚悟してください。また、昼食をとるのも遅くなります。1時半ごろ談合坂サービスエリアでとることになりますので、その前においしい酒饅頭のお店に寄りますから、それを楽しみに歩いてください。」などとリーダーの筒井さんからお話がありました。
 確かに盛りだくさんの歴史をたどるコースとなりました。(後日整理するのに地図を辿ることが困難な場面が出てきました。今後地図が完成するかどうかはわからない状態です。)
 午後3時を過ぎて大月市に入りますと、「これから1時間近くひたすら鳥沢駅まで歩きます。疲れているでしょうけど、頑張ってください。」ということでした。
 「C-1コース」とはいえ、登山部に所属していますので、みなペースを落とさず、元気に4万歩近い距離を最後まで歩き通しました。
 今日の私の万歩計は40,066歩を示していました。          

newsコース

集合場所・時間: JR中央線藤野駅改札口 8:30
JR藤野駅 8:30スタート・・・8:50頃 関野宿(見落とす)・・・10:28頃 上野原宿・・・10:53 鶴川宿・・・12:16 野田尻宿・・・14:31 犬目宿・・・ 15:58 下鳥沢宿・・・16:00JR鳥沢駅(解散) 16:21発「中央特快東京行」の電車に乗る・・・八王子駅 17:03着・乗り換え
       歩行時間:(予定) 約20kmを約5時間  (私の携帯電話の万歩計:40,066歩)
           自宅到着は18:30頃でした。
       参加者:16名(そのうち男性は2名) 
       リーダー・サブリーダー:筒井さん・鈴木さん
 日野宿で購入した甲州街道の宿場案内の一部です。今回は神奈川県相模原市関野宿から境川を渡って、山梨県上野原市に入り、大月市の下鳥沢宿まで歩きました。
 「藤野駅」から「増殊寺」へ、国道20号を通って「名倉入口」を左に下りていき「境沢橋」へ 
 

8:30  藤野駅スタート
集合時間10分前には全員揃ったので、準備体操なしで、雨粒がパラパラ落ちてくる中をスタートしました。

8:43 前方の中央自動車道の橋脚の下を進みます。

8:53  「曹洞宗増珠寺」前を通過
この手前から「関野宿」に入り、「関野本陣跡
説明板」
があったようですが見落としました
説明板には「明治21年とその後の大火で本陣
及び宿場の面影を残す建物はほとんど焼失して
しまった」と書かれているのだそうです。

増珠寺の石段左に並ぶ碑のうち、向かって右側の
『安昌久全信士』の碑は、力士追手風喜太郎
(りきし おいてかぜきたろう)の手により建立さ
れた、力士で叔父にあたる追手風小太郎の碑
また左側の「庚申塔」の横の面に「関野宿講中」
と刻まれているそうですが、それも見落としました。

 「力士追手風喜太郎」の説明板。内容は左に記載

 8:55 藤野町小渕の陸橋を渡って
    国道20号左側を歩く。

8:56

9:04 相模湖を左手に見下ろして

9:06 「名倉入口」を左手に下りて旧甲州街道へ

9:09 「境沢橋」を渡って・・
相模原市佐野川・小淵と、上野原市との間を
南に下り、桂川へ合流する。
神奈川県相模原市(相模の国 )から
山梨県上野原市(甲斐国)へ
 「境沢橋」から「諏訪神社」へ  
 

9:14  Uターンして坂(乙女坂)を上って行きます。
9:14  リーダー:「あの上まで歩きます!」

9:19  後ろを振り返って・・・あの建物は?

9:22 相模湖が再び左手に見えました。
 
9:25 「諏訪関跡」
 
9:25 「諏訪番所跡」 上野原市上野原26 以下は「上野原市HPより」
 
乙女坂の上にあって別名境川番所とも呼ばれてきました。甲斐国の表玄関にあたり、平時は通行人やその荷物、輸送品などの検査や取り締まりが行われ、合戦時には防備の機能をもっていました。甲斐国24関の一つです
 

9:27 「上野原自動車教習所」前通過
9:28 直進

9:33 右側に「慈眼寺」の看板

9:35 「上原山 船守寺」前を通過

9:36~9:48 「諏訪神社」で休憩

縁結び・子宝の神「諏訪神社」
 
   諏訪神社」から「ホテルルートイン上野原」へ
 

9:53 表札に「油屋」と書かれた
立派な建物前を通過

9:54  昔をしのぶ思いでの道「旧甲州街道」

9:56 中央自動車道の陸橋を渡る

9:57  「塚場一里塚」「疱瘡神社」
右端の建物は塚場部落の共有品の収められている倉庫で「塚場防災会」の張り紙がありました。
 
 

10:02  これはあけび? 「ポポー」です。
 たまたま家の主がいらして以下の説明がありました。ポポーは熱帯の果物で、日本には明治時代に入ってきました。病害虫に強く、無農薬で栽培できるので庭木として栽培されています。茨城県日立市十王町は特産品としてポポーの栽培と加工に取り組み、ポポーのワインや焼酎などを販売しています。
 
10:07  郵便局前を通って

10:12  「名物 酒まんじゅう」を購入
あまみそあん=85円/個なり 

10:28「ホテル ルートイン 上野原」のある
このあたりに「脇本陣跡」がありました。
 ホテル ルートイン 上野原」から「一級河川 鶴川に架かる橋」へ   
 

10:31  「本町」交差点を渡って右折し
山梨中央銀行方面へ

10:32 山梨中央銀行前のY字路を左手20号へ

10:39 右折して「旧甲州街道 鶴川宿方面」へ 

10:41「鶴川入口歩道橋」を渡って

10:43 左手の「旧甲州街道 鶴川宿方面」

10:43 本日の終点の「鳥沢」まで15km
 
「甲州街道 史跡 案内図」より

10:47 「旧甲州街道」

10:48 

10:50  一級河川「鶴川」
かつては渡し船で渡ったところ
 「鶴川に架かる橋」からは地図を追えませんでした。時間のある時に行う予定です。
 
10:53 「旧甲州街道(道中)」鶴川宿 上野原町教育委員会 平成14年7月・・・」の石碑
これより甲州街道 鶴川宿」の標識前を通過

鶴川宿は、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠8件の小さな宿場であったが
宿場は大正10年の大火で、殆どの建物が焼失した

10:55  「上野原宿⇔上野山・大椚宿」の標識あり

10:56  「中宿 藤井屋」通過

10:58 クラシックな家を何軒も通過した後

10:59 ここから入って、突き当りを左折

10:59 登り坂

11:00 右へ

11:05 竹やぶとギリシャ風の倉を通過し、
突き当りを右折

11:13 前方の中央自動車道の陸橋
鳶ヶ崎橋」を渡り直進しました

11:22~11:26 「大椚一里塚跡 
 

 11:31  手前は「上野原デマンドタクシー停留所
中央の碑には「上野原リサーチ&テクノパーク」と書かれています。
 
11:34  「廿三夜碑」・・・左側に説明をつけました

11:39 道標と石碑
「上野山 鶴川宿⇔ 野田尻宿 犬目宿」
「大椚発祥の地」

11:41 石仏石塔群

11:42 「吾妻神社」大杉甲州街道案内図

 「吾妻神社」「廿三夜碑」

 道路に面して手前左に「供養塔」

11:45 「小澤」と書かれた個人宅の標札

11:49 

11:53 ~11:58 発掘された「長峰の砦跡」

句碑:古池や 蛙飛び込む 水の音 芭蕉

 雨がポツリポツリ降りだしました。

「長峰の砦跡」の碑


「発掘された長峰砦跡」説明文

12:02 「これより甲州街道 野田尻宿⇒」の道標
 

12:03 「新栗原橋」を渡る。

12:04

12:06

12:14 宿場町の雰囲気の漂う家並

12:16 ~18「野田尻宿」の石碑に到着する頃には
雨具が必要になるほどの雨になっていました。

 道路の反対側

「野田尻宿」の石碑と「甲州街道 野田尻宿案内板」
本陣1、脇本陣1軒、旅籠9軒の宿場で、明治19年に大火にあっている。

12:18 「犬嶋神社」前を通過して

12:20  「至 野田尻⇒至 荻野・棚頭」

12:21~23  正面は「西光禅寺」

「西光禅寺」前を右折

「西光禅寺」

12:24  右側の石段を上る。

12:27  「北久保橋」を渡って 下は中央自動車道

12:28 林道へ

12:29 「県道大月上野原線」を右折

12:31 右側に「荻野1里塚」の道標  
 
日本橋から20番・20里

 12:36 

 12:41 中央自動車道の防音壁に沿って進む

12:44 T字路で右折する。 

12:44 旧甲州街道を離れ、本日の昼食の地へ

12:46~13:40 「談合坂SA」


各自 自由に昼食

私の昼食

13:52  雨の上がった旧甲州街道に戻りました。

13:53  「大乗妙典日本廻国供養」

13:53  旧甲州街道「矢坪坂(やつぼざか)」
あら、皆さん、振返って私を見てるんですか。
違いましたね。ちょっとしたハプニングあり、
でも大したことではありませんでした。 

13:55  「矢坪坂古戦場跡」
1530年相模の国の北条氏縄が甲斐の国に攻め入り、
向かえ撃ったのは、小山田越中守。矢坪坂の上で
待ちかまえ、激戦になったが小山田軍の敗退となる。
 

「矢坪坂古戦場跡」の案内板(左に切り抜き有り)

14:02  武甕槌たけみかづち)神社

14:03 山道へ入っていきました。 

14:04

14:04

進行方向左側に広がる風景

14:05 

14:07
 14:12  
フェンスのある山道の下を覗くと切り立った崖。
急カーブになっています。盲人が前を行く人の声を頼りに直進し、谷底に転落してしまったという難所、
右側の立札には「この上 天王様」と書かれている

14:16  

14:16  新田の集落へ

14:18 ~21 立派な家の前で立ち止まっています

何か書いてあるようです。

「旧甲州街道新田宿尾張の殿様定宿家」
 
新田宿は犬目宿の脇宿  説明文がありました



 

14:21 すぐ近くに「庚申供養塔」「念仏説經塔 

14:23  前方に立札の群れ
 
14:24 「これより甲州街道 犬目宿」「君恋温泉」「⇐犬目宿直売所」

14:24 石垣エンジニアリングシップビル前通過

14:28 門が歴史を物語っているようです。

14:31~14:39 「犬目宿直売所」で休憩
「甲州街道犬目宿案内板」
「犬目宿」の碑 

「犬目宿直売所」「犬目宿」の碑 
 
 

14:43 「義民 犬目の兵助の生家」

14:47  曹洞宗 「龍澤山 寳勝寺」
 

 14:47
「葛飾北斎[冨嶽三十六景]歌川広重
[不二三十六景]は宝勝寺慈母観音の辺りから
見える富士と言われています 龍澤山 宝勝寺」

14:52  「白馬不動尊」の鳥居

15:00

15:04 江戸日本橋から21番目の「恋塚一里塚」 

15:07
 

15:08 「山住神社」 

15:10 石畳へ

15:12 上野原「至 鳥沢 ⇔ 旧甲州街道 石畳」

15:13 上野原から大月市に入りました。

15:22 「馬頭観世音」

15:22 

 15:23  「大月カントリークラブ」「妻恋温泉⇒」

15:26

15:29 このあと5分休憩をとりました。

15:45

15:48 

15:49 

15:50 中央自動車道のガードをくぐります。 

15:52

15:55 国道20号(甲州街道)に出て右折

15:55 国道20号(甲州街道)
 
15:58 信号:鳥沢小東 「下鳥沢宿」

16:03  横断歩道:鳥沢小学校 

16:05  「地酒・米 近江屋」前を左折

16:06  本日の終点「鳥沢駅」に到着
 本日のリーダーの最後の言葉:
 今日はこれまでで一番疲れたでしょう。
 お風呂上りに足のストレッチ、特に足の裏やふくらはぎをよくもんで、お休みください。 

 リーダー・サブリーダーの努力も大変なものだったことでしょう。しっかりした事前準備と下見があってこそ、道に迷うこともなくスムースに行程を終了することができました。歴史的な説明も、重点的な見学場所も洩れなく説明していただけて、感謝しております。
次回はこの駅からスタートです。
 「曹洞宗増珠寺」の
力士追手風喜太郎
(りきし おいてかぜきたろう)
 
 追手風喜太郎は、寛政十一年(1799年)甲州街道沿いの当地関野に生まれ、幼名を「松次郎」と言いました。その生家は、現在もこの寺近くにあり、佐藤博文氏が当主として守っております。
 松次郎が力士への道を歩むようになったのは、九歳の時、同郷出身の力士で叔父にあたる「追手風小太郎」が長崎巡業の折り、松次郎の家に立ち寄ったことから始まります。この時、松次郎は親の止めるのも聞き入れず小太郎の後を追い弟子入りしました。力士としての仲間入りをしてからは、松五郎とも呼ばれ、文政三年 (1820年)春場所には西三段目の下から二枚目となり、シコ名も「黒柳」と改めました。文政十二年には前頭筆頭となり、黒柳の名を「往右衛門」と改め、さらに天保二年(1831年)春場所からは「追手風」としました。その後、小結・関脇とすすみ天保七年には西大関と据り、同一〇年には土俵を退いたとのことです。
 土俵を退いてからの追手風は、年寄となり相撲会所の要職に着くと共に、門下からは多くの名力士を出しました。また、敬神祟祖の念に厚く、竜渕山増珠寺には五具足・燭台などを寄贈し、氏神の三柱神社には、青龍・白虎・朱雀・玄武の四神の幡(写真)を献納しました。
 この「安昌久全信士」の碑は、文政一二年一一月二五日喜太郎の手により建立されたもので、追手風小太郎の碑であります。また、佐藤家の墓地には、昭和四六年建立された追手風喜太郎と弟子の横綱雲竜久吉の碑が建てられています。
     昭和六一年二月          藤野町教育委員会


 「境沢橋」 
 上野原市と神奈川県相模原市の間を流れるのが境川で、相模国と甲斐の国の国境をなすところから名付けられた。水源を棡原地区に持ち、相模原市佐野川・小淵と、上野原市との間を南に下り、桂川に合流します。その合流付近にかかるのが境沢橋で、上野原の甲州街道はここから始まる。 

境川橋のたもとの「またたび」
 「諏訪番所跡」案内板より
 乙女坂の上にあって別名境川番所とも呼ばれてきました。
 甲斐国の表玄関にあたり、平時は通行人やその荷物、輸送品などの検査や取り締まりが行われ、合戦時には防備の機能をもっていました。
 甲斐国24関の一つです。
 「諏訪神社」案内板より  
 祭神は建御名方命(たけみなかたのかみ)を祀り、寛政5年(1793)の建築で本殿は精緻な彫刻でさまざまな題材が意匠化され、建物の構造とともに江戸時代後期の特色がみられる神社です。
 境内には、甲州街道三本杉の大杉の切り株もあります。

 「廿三夜碑」
    「コトバンク」より
…旧暦23日の夜,すなわち二十三夜に講員が宿に集まって飲食をともにしながら月の出を待つことをいう。三夜様とも三夜供養ともいい,月待行事のなかでも最も盛んに行われた。月待のマチは,神のかたわらに待座する意味らしく,この夜には神の示現があると信じられていた。講は,村の小字,村全体,任意の者などを単位としていたが,女性,とくに嫁仲間で結成されることが多い。地方によっては,二十二夜を女性,二十三夜を男性の集りとする所もある。
 上野原町指定文化財
「矢坪坂
(やつぼざか)の古戦場跡」
所在地:上野原町大野矢坪一帯
指定:昭和52年(1975年)12月22日
 
 
 
 
上野原町教育委員会

 


 

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