2016年1月-2017年X月甲州街道を歩く
昨夜までの関東地方の天気予報では、本日は昨日同様うす曇りで気温もあがらないはずでした。
ところが高尾駅に到着する頃には快晴になり、気温もぐんぐん上がってきました。
小仏峠に行くバスを待つ人は私たちのグループだけで、珍しいことだと思っていましたが、バスの出発時間までには倍の人数の縦長の列ができていて、いつもながらリーダーたちの読みの深さに感心しました。
バス停で、リーダーから飲物を何本用意しましたかと聞かれ、「1本」と答えましたら、「2本は用意してください。」とアドバイスがありすぐ購入しました。結果は1本ではとても足りませんでした。
「甲州街道は東京・神奈川・山梨・長野の4都県に跨っていますが、ほとんどが山梨県にあり、神奈川の街道は短いので、今日は神奈川の街道を十分楽しんでください。」ということで、「小佛山 寶珠寺(ほうしゅうじ)」の入り口付近で軽めの足腰の準備体操をしたのち、歩行を開始しました。
川のせせらぎの音を聞きながら、ゆるやかに峠を上って行きましたが、これまでの甲州街道歩きとは異なり山道ですので、間もなく登山状態になりました。流れる汗と小仏峠までの約300mの登りのきつさにおしゃべりも途絶える場面もしばしばでした。それでも森林の中の峠道は涼しく、木々の緑も目に優しく、疲れを忘れさせてくれました。
小原宿と吉野宿では、訪問者が私たちのグループ以外は人数も少なかったので、資料もたくさんいただき、丁寧な宿の歴史と建物の解説もあって、充実した時間を持つことができました。
今日の私の万歩計は約3万歩を示していました。
日野宿で購入した甲州街道の宿場案内の一部です。今回は小仏峠を経て相模原市に入り、吉野宿まで歩きました。 | |
「小仏バス停」から「小仏峠」へ |
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8:35 小仏バス停着 |
8:55 スタート。小仏バス停のトイレは私有地を拝借して作っているので、男性用が1つの他、多目的用のトイレが1つしかありません。次のトイレまで2時間かかる ということで、歩行開始までに20分も要しました。 |
9:02 「小佛山 寶珠寺(ほうしゅうじ)」を 入ったところでリーダーから諸注意があり、 簡単な準備体操も行いスタートしました。 |
「この暑さの中を歩くのですから熱中症に ならないように、衣類はできるだけ薄着にし、 飲物も自由に、十分にとってください。」 |
東京都指定天然記念物「カゴノキ」は この左手にありました。 詳細は左上に記述。 右の写真の岩の上の太い木。 |
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9:20 「小仏バス停」から「小仏峠」へ 正面は「景信山」への道筋 |
9:20 花期に葉が白くなる「マタタビ」 |
9:24 「駐車場」 ここから車両通行止め |
9:26 「113号水準点標石 標高369.51m」 |
9:32 右側に湧水の「水飲み場」 |
花序が5つあっても「フタリシズカ」 |
9:41 要所要所に「消火用水」が確保されています 急登の登りになりました |
9:56 「関東ふれあいの道」 小仏峠頂上のタヌキ 小仏城山へ 0.9km, 高尾山へ 3.2kmの地点 |
9:57~10:09 東京都と神奈川県の境目にある小仏峠で休憩 東京都八王子市と神奈川県相模原市緑区の間にある峠で標高548m 「廃屋となった茶店」・1880年(明治13年)に明治天皇の山梨巡幸の際に作られた 「明治天皇小佛峠御小休所阯及御野立所」の碑と「三条実美の歌碑」 |
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「小仏峠」から「底沢バス停」へ | |
10:11 小仏峠より東海自然歩道・甲州道中を相模原市相模湖町側に下山 |
10:33 送電鉄塔脇を通って杉林の中を下る |
10:47 中央本線トンネルが左手前に見えました |
10:49 小仏峠1.8km↔底沢バス停1.7km |
10:49 底沢バス停へ向かって |
10:50 右端は「甲州古道 底沢」の道標 |
10:56 底沢バス停への道 |
10:59 中央自動車道の高架が見えてきました |
11:00 中央自動車道の高架をくぐって |
11:02 T字路を左へ。以下の道標が2つあります |
「照手姫ものがたり」の詳細は左端の説明参照 |
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11:04 再度中央自動車道の高架をくぐります |
11:08 テイカカズラの花 |
11:12 甲州道中小原一里塚の看板 |
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11:12 長久保架道橋をくぐって右へ |
11:13 |
11:18 国道20号にある底沢バス停と左側に底沢橋、私たちは右手=手前の相模湖方面に向かって歩く |
11:19 国道20号を相模湖方面へ |
「底沢バス停」から「小原の郷」「小原宿本陣」を経て「寿堂」へ | |
11:22~11:30 相模原市の「小原の郷」に立ち寄る |
日本橋から63km |
正門 |
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集いの磨(会議室) |
多目的(展示)室 |
11:36~12:12 小原宿本陣 正門の右端に「高札場」 |
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相模國津久井縣 甲州街道小原宿御高札場 「奉行」よりの2種類の「定」がありました。 |
玄関から右に「広間」「土間」 |
玄関の左側 家老や側近の使用した「控の間」 |
見学者への解説 |
囲炉裏の上に吊るしてあるのは、自在鉤 (じざいかぎ)と言い、横木の上を向いた先端は江戸、 場所によっては京都を指しているそうです。 |
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大名が泊まった「上段の間」 築山の眺めが良い |
2階は蚕室だったが、今は昔の道具が展示されている |
築山側から見る上段の間・中の間の上の屋根 |
「入側」の畳が続く、 手前の部屋は「中の間」、奥が「上段の間」 |
本陣の向かいのお店 | |
12:17~12:24 「寿堂」に立ち寄って |
お一人さん1個 相模原名物「酒まんじゅう」をほおばる |
「寿堂」から相模湖駅前「かどや食堂」へ | |
12:31 |
12:42 階段を下りて |
12:43 | 12:43 正面は中央本線と相模湖駅 |
12:44 「与瀬宿・小原宿 甲州古道 与瀬下宿」 と書かれた道標を通過 |
12:44 |
12:46 T字路を右折して |
「甲州古道 右小原宿 左吉野宿 甲州道中 与瀬宿」 |
12:48 「相模湖駅前」を駅方向に JR相模湖駅付近が与瀬宿だったようです。 |
12:50 昼食のお店へ 正面は相模湖駅 相模湖駅もかつては与瀬駅として開業していました。 |
12:50~13:55 昼食のお店「かどや」 |
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デザートにアイスクリームと コーヒーもついて税込み800円でした! |
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「与瀬宿」から「吉野宿ふじや」へ | |
14:04 「明治天皇輿瀬御小休所阯」 傍らに「与瀬本陣」と記された標柱が あるようですが、見落としました。 |
14:05「金峰山慈眼寺」と号する高野山真言宗の寺院 |
14:06 「金峰山 慈眼寺」の石碑 階段は歩道橋、お寺も神社も歩道橋の向こう側 |
14:07 「与瀬神社」の鳥居 急な石段は参道を中央自動車道が横切って しまったために作られた大きな歩道橋 |
鳥居の端に「北相名社 輿瀬神社」 | 14:11 |
14:12 中央自動車道と左の国道20号の間の 細い道が甲州街道 |
14:14 ラーメン店前を通り、高速道路をくぐって登りの道へ。ラーメン店の右側を山の中へ入る道が本来の旧甲州街道、途中で途切れてしまう。 |
14:24 眼下の高速道路の向こうに相模湖・HOTEL ROYAL・勝瀬橋 |
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14:26 丸一産業株式会社神奈川工場 ソックス・タイツ・パンスト等の弾性糸を製造し グンゼや東レはじめ、全国の生地メーカーで 利用されている。 |
14:41 |
14:42 |
14:45 中央自動車道の真上から |
14:49 「与瀬宿・吉野宿 甲州古道 赤坂」 と書かれた道標を右に見て通過 藤野街地区自治会連合会の掲示板 |
14:49 細い道をゆるやかに下っていきました。 |
14:52 間もなく林道に出て右折。 |
14:54 「与瀬宿・吉野宿 甲州古道 椚戸(くぬぎど)」と書かれた道標を左に見て通過 |
14:54 |
14:55 右手に石仏が並んでいました。 |
15:02 「吉野宿 高札場」の道標がありました。 |
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15:03 |
15:05 右手に古い蔵がありました。 |
15:05 「聖趾」と書かれた石碑もありました。 |
15:05~15:35 「吉野宿ふじや」に到着 |
1階は畳部屋となっていて、入り口には本物の蚕が飼われていました。案内人の説明や、説明文の掲示、図解もあって、蚕の一生や、繭の成長の過程がわかるようになっています。 2階には地元で出土した土器や当時の人々が用いていた生活用具、そして養蚕業に関する展示がされていました。 |
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「吉野宿ふじや」から「JR藤野駅」へ | |
15:48 |
15:48 「日連(ひづれ)入口」 |
16:04 「藤野総合事務所前」 |
16:06 「JR藤野駅」到着・解散 |
次回はこの駅からスタートです。 |
寶珠寺(ほうしゅうじ)境内の東京都指定天然記念物 「小仏(こぼとけ)のカゴノキ」 |
木の幹がまだらに剥がれて、白と茶色の鹿子になっているので「鹿子の木」と呼ばれていたが、なまってカゴノキとなったもの。 寶珠寺本堂左脇の崖の上にあり、主幹は枯れてその周囲を枝幹がとりまいて一株になっています。幹囲わり、約4.3メートル、高さは13.0メートルあります。根もとから1.3メートルのあたりから多くの枝が分岐しています。一部の根が約3.1メートル崖下の通路に露出しています。枝張りは樹幹を中心に南北約22メートル、東西約17メートルあります。樹勢は盛んで、関東地方における大樹です。 カゴノキはクスノキ科に属し、暖地に自生する常緑高木です。 東京都教育委員会作成看板より |
小仏峠 |
江戸時代の五街道の一つ「甲州道中」。現在の国道20号線の旧道である。この街道の難所として知られた小仏峠は、標高548メートル、武蔵国と相模国を結ぶ国境の峠であった。その名は一寸八分の小さな仏像が峠に安置されていたことが由来ともいわれている。
時代は下り、明治21年(1888)に、輸送力を強化するため大垂水峠を通る新道が整備。それ以降は、人びとや物資が行き交うことはなくなった。
現在、小仏峠の頂上には、明治天皇聖蹟碑や太政大臣・三条実美の歌碑が建っている。これらは明治13年(1880)の山梨巡行の際、明治天皇の通行を記念して建てられたもの。歌碑の和歌は、三条実美が命を受けて高尾薬王院に詣でて詠んだものといわれる
『来てみればこかひはた織いとまなし甲斐のたび路の野のべやまのべ』
「こかひはた織」は「蚕飼ひ機織り」である。当時、生糸は高騰しており、これは多摩や甲州が養蚕や製糸、織物業でにぎわう様子を歌っている。峠を行くハイカーたちは当時の情景を知る由もない。 郷土資料館ガイドボランティア より
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照手姫ものがたり 美女谷伝説(相模湖町底沢) |
浄瑠璃や歌舞伎で知られている「小栗判官と照手姫」の物語。照手姫は小仏峠の麓、美女谷の生まれと伝えられ、その美貌が地名の由来になったともいわれています。
北面の武士だったという父とやさしい母から生まれた照手姫は美しい娘に成長し、美女谷川上流の七ツ淵で豊かな黒髪をすくその姿は、まばゆいばかりの美しさを放ち、里の若者を魅了したといいます。しかし不幸にも両親が相次いでこの世を去り、いつしか照手姫の姿は美女谷の里から消えてしまいました。 その後、数奇な運命をたどった照手姫は相州藤沢宿で小栗判官満重と劇的な出会いをしますが、満重は毒殺されてしまいます。姫の必死の思いが通じたのか、満重は遊行上人(ゆぎょうしょうにん)という名僧のおかげで蘇生し、常陸の国の小栗城に帰り、照手姫を迎え、末永く幸せに暮らしたといいます。 |
小原の郷(おばらのさと) |
小原地区の自然環境の紹介や、小原宿本陣に保管されていた古文書や資料、周辺地域の貴重な出土品の展示などを行っています。 また、地域の人々の交流にも力を入れており、新鮮な地野菜や特産物の並ぶ朝市、可憐な花の美しい花市、フリーマーケットなどが催されています。 相模原市観光協会ホームページ より |
小原宿本陣 (おばらじゅくほんじん) |
本陣は大名の宿 小原宿本陣は、清水家の建物が使われました。 この本陣を利用したのは、信州の高島藩、高遠藩、飯田藩の大名と甲府勤番の役人で、この本陣に泊まりきれない家来たちは、脇本陣や旅籠に分かれて泊まりました。 大名の宿であった本陣という建物は、神奈川県下では、東海道と甲州道中で合わせて26軒ありましたが、現在建物として残っているのは、この小原宿本陣1軒のみで、大変貴重な建物となっています。 小原宿は片継ぎの宿場 江戸時代になって甲州街道の宿場が整えられました。 この小原宿は、江戸から9番目の宿で、小仏峠を前にして重要な宿場で、片継ぎの宿場(小仏宿から来た人や荷物を、与瀬宿を通り越して吉野宿まで継ぎ立てる。そのかわり江戸の方へは、与瀬宿から小原宿を通り越して小仏宿へ継ぎ立てる。)として特殊な継ぎ立てをしました。 旅籠は、7軒あり、一般の旅人のほかに、富士山や身延山にお詣りする講の人たちも多く泊まらせました。 相模湖観光協会ホームページより |
吉野宿ふじや |
吉野宿は、江戸時代初期に定められた五街道のひとつ、「甲州道中」の10番目の宿場で江戸と甲府の中間にあたり、諏訪藩(高島藩とも呼ばれる)、高遠藩、飯田藩などの参勤交代の常宿として栄えました。 「ふじや」は、かつて、旅籠「藤屋」として営まれていましたが、明治29年の大火で焼失し、現在の建物は明治30年頃に建てられたものと言われています。 平成26年4月1日に市登録文化財に登録されました。 建物構造 木造2階建て・切妻造・平入の町屋建築の建物 相模原市ホームページより |
高尾駅 8:12発ーーバスーー8:35着 小仏バス停 8:55 スタート・・・9:57 小仏峠着 (休憩) 10:09 スタート・・・11:20~11:30 小原の郷 (見学) ・・・ 11:35~12:12 小原本陣 (見学)・・・12:50~13:55 「与瀬宿」相模湖駅前「かどや」(昼食タイム)・・・14:04 与瀬宿本陣跡・・・15:05~15:40 吉野宿「ふじや」(見学)・・・16:06 JR藤野駅(解散)
16:10の電車に乗る
歩行時間:(予定)約5時間 (私の携帯電話の万歩計:30,380歩)
自宅到着は18:00でした。
参加者:20名(そのうち男性は3名)
リーダー・サブリーダー:筒井さん・鈴木さん