2016年1月-2017年X月甲州街道を歩く
三寒四温と申しますが、今朝も大変寒い日で、TVでは東京でも雨か雪という予報が出ていました。
個人的には、朝から失敗続きのスタートになりましたので、1日が無事に過ごせるかどうか心許なかったのですが、覚悟を決めて皆さんと楽しめるよう気分転換しました。
調布駅だったかと思いますが、リーダーの筒井さんから参加者に対するご挨拶の後で、今回の見どころの古墳や日野本陣、寺社等の紹介があり、さらに「今回のコースは甲州街道巡りの中では最も長い距離になるので、皆さん、頑張って歩いてください。」と発破も掛けられました。
霧雨の中を歩きだしましたが、まもなく傘を広げる人が出てきて、30分も歩かないうちに全員雨合羽を羽織るようになりました。ザーザー降りにはならず、昼食後には雨もあがり、曇り空の下でのウオーキングとなりました。
今回の街道沿いには、江戸時代の面影を残す史跡、文化財などがたくさんあり、甲州街道歩きの気分をたっぷり味わうことができました。
今日の私の万歩計は3万5千歩を超えていました。
日野宿で購入した甲州街道の宿場案内です。今回は下石原宿から日野宿まで歩きました。 | |
「調布駅」から「西光寺」へ |
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9:12 霧雨の中、調布駅を出て |
白いビルPARCOと茶色のビルSHINO の間の道路へ進む。 |
9:17 「調布駅西」信号を直進すると |
9:19 「市旧跡 小島一里塚跡」と彫り込まれた 石碑があり、隣に以下の説明がありました。 |
9:22 119号線を「府中」方面へ直進して |
9:25 「旧甲州街道」のサイン |
9:28 「火の見櫓」近くに「火の見下」バス停 |
9:29 すぐ近くに、地蔵さん |
9:33 「源正禅寺」入口の六地蔵です。その前を通過し |
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9:39 〜9:43 西光寺 雨が本格的になりそうなので |
仁王門前で、雨具を身に付けました。 |
天台宗の寺。明治 12 年に大部分が焼失するまでは威容を誇って いたそうです。近藤勇が山梨の戦いに行く途中に 立ち寄ったとの言い伝えが あり、境内には坐像がありました。 |
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「西光寺」から白糸台・「不動尊前」交差点近くの「染屋不動尊」へ | |
9:52 民家の門の向こう側に「味の素スタジアム」が見えます。別の角度からも撮影しようとしましたら、サイレンを鳴らし消防車が入ってきました。この近辺で火災が発生した様です。次々と消防車がやってきました。被害が少なかったことを祈ります! |
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9:58 京王線の飛田給駅(とびたきゅうえき)は、副名称があって「味の素スタジアム前」とも呼ばれます。 |
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10:12 飛田給薬師堂 |
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「飛田の原の石薬師」と言われる石仏の安置されているお堂と、下はその説明 |
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「行人塚」とその解説(左側にあります) | |
10:26 「観音寺」前を通過 |
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「観音寺」 |
10:27 「下染屋」の碑 |
府中市を通る西武多摩湖線の「白糸台」駅周辺は、町村合併でひとつの地域になるまでは「染屋村」と呼ばれており、 白糸台通りの辺りから府中寄りが「上染屋村」、調布市寄りが「下染屋村」とさらに二つの村に分かれていました。 下染屋村の由来が書かれた石碑より: 「下染屋(しもぞめや)現在の白糸台三丁目(旧甲州街道沿い)に集落の中心があった村落です。 幕末の地誌には[民戸三十七軒、甲州街道の左右に並居(新編武蔵風土記稿)]とあります。もともとは多摩川のほとりに 集落があったそうです。 地名の起こりは、俗説として調布(てづくりぬの)を染めた所であったとか、鎌倉時代に染殿のあった所とかいわれており、 現在も神明社の秋祭りには「染殿神社御祭礼」の提灯が掲げられています。 いずれにしても布染めに関係のある地名のようです。 古くは染屋は一つの村落で上下二村に分かれた時期は不明ですが、 寛永十二年(1635)の検地帳には下染屋と記録されています。染屋の名は、南北朝時代の資料に見えます。 |
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10:27 「車返団地入口」の信号 |
10:30 ピッカピカの御影石の塀 |
10:34 「西武多摩川線」 |
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10:39 「染屋不動尊」 国宝の阿弥陀如来像があるそうです。下はその説明の碑です。 |
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10:40 「上染屋」の石碑 |
上染屋(かみぞめや)の集落はもともと多摩川のほとり、小字でいえば、龍ヶ島・亀沢・鶴代の辺りにありましたが、度重なる洪水を避けて、現在の甲州街道沿いの白糸台一丁目の一部に移ったものといわれています。 地名の起こりは、俗説として調布(てづくりぬの)を染めた所とか,鎌倉時代に染殿のあった所とかいわれ、染屋の名は南北朝時代の資料にも見えています。 古くは染屋という一つの村落であったものが、時期は不明ですが上染屋と下染屋に分かれたものです。寛永十二年(1635)の検地帳には上染屋の名が記録されています。 幕末の地誌『新編武蔵風土記稿』に「甲州街道の村にて、民戸五十三軒、往還の左右に並居」とあります。 |
「染屋不動尊」から「高安寺」へ | |
10:51 「常久(つねひさ)」の地名の起こりを説明する石碑 |
10:51 |
説明文の要約: 常久(つねひさ)は現在の若松町の一部(旧甲州街道沿い)に集落の中心があった村落です。 もともとは多摩川のほとりに集落がありましたが、洪水によって流され、移動したそうです。 新編武蔵風土記稿によれば、常久という人がいて、その名が使われるようになったと書かれていました。 |
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10:52 「常久八幡神社」前を通過 |
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10:55「東府中駅東」を左の旧甲州街道へ |
11:00 |
11:40 伊勢丹9F「グルメダイニング」に到着 |
全員が入れて注文はどこのお店のでもOKでした! |
ランチタイム: 11:40〜12:15 伊勢丹のグルメダイニングで「焼きそば」を注文することになるとは! 確か800円から900円以内で一番安かったものですから(*_*; もちろん、美味しかったですが、大事なことを忘れたつけが、回ってきました! 「隣の芝生は青い」 「隣のランチ」も美味しそうに見えました。 |
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12:30 〜12:40 「大國魂(おおくにたま)神社 」にて 大鳥居 |
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宮乃盗_社(みやのめじんじゃ) |
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「相撲場」 |
「日露戦役記念碑」と「手水舎」 |
「手水舎」 |
「鼓楼(ころう)」 |
「随神門(ずいじんもん)」 |
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「宝物殿(ほうもつでん)」 |
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「拝殿(はいでん)」 |
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満開の枝垂れ桜 |
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12:47 復元された「高札場」です。 府中市役所前の交差点は 甲州街道と鎌倉街道 (府中街道の一部)の交差点で「札の辻」と呼ばれていました。 |
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12:53 「番場宿」の説明碑 |
番場宿は、現在の宮西町二・四・五丁目の一部(旧甲州街道沿い)に集落の中心があった宿場です。この宿場は、もとの名を茂右衛門宿といいます。これは、この土地が名主茂右衛門によって開発されたことによります。番場宿と称するようになったのは寛永十三年(1638)のことといわれています。 幕末の地誌「新編武蔵風土記稿」によれば「家数百三軒、(甲州)街道の左右に簷を連ね」とあります。もともと番場宿はハケ沿いの甲州古街道筋にありましたが、新街道の設置(慶安頃1648から52)に伴って移転したものです。 地名の起こりは不明ですが、馬場の転訛とか、番所があったからとの説があります。 この地域には、高安寺、長n宸ネどの古刹があります。 |
12:53 「番場公園」「御本社一之宮 馬場町」 |
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12:55 |
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12:56 車の入らない緑道を人と自転車が通過 |
12:57 「高安寺」 |
「高安寺」と「弁慶坂」についての解説 |
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12:58 |
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「高安寺」から「谷保天満宮」へ | |
13:10 立派な「内藤家の冠木門」 |
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13:14 内藤家冠木門から4分のところにありました。 |
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13:18 「本宿交番前」交差点 |
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13:18〜13:45 「熊野神社の石碑」と「国史跡 武蔵府中熊野神社古墳 展示館」 |
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「国史跡 武蔵府中熊野神社古墳 展示館」 |
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「国史跡 武蔵府中熊野神社古墳」 上円下方墳という珍しい古墳、飛鳥時代に作成されました。 |
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14:05〜14:11 「谷保天満宮」 |
古墳に関して、展示館の方の 丁寧な説明があり、 資料もいくつかいただきました。 神主さんから「谷保天満宮」について、 名前の由来や天満宮にまつわる様々なお話を、 丁寧な中にもユーモラスな語り口で 解説していただきました。 |
菅原道真は優れた学者であったので、学問の神様として信仰を集めています。 その人気のほどを示す多数の受験絵馬が奉納されていました。 |
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「谷保天満宮」から「日野宿本陣」、そして「JR日野駅」で解散 | |
14:40 「南養寺」前を通過 |
14:56 「元青柳村の常夜灯」 青柳福祉センターの敷地内にありました。 |
14:59 青柳福祉センター前の「おわんこ倉」 祭りの時に共同で使う使う漆器類を保管しておく倉 |
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15:33 立川側「日野の渡し碑」 日野橋(甲州街道)と 立日橋(都道149号)の中間にある錦町下水処理場の横に立川観光協会が建てた石碑 |
15:35 多摩川土手沿いの道へ |
15:36 多摩川と「立日橋」 上は「多摩モノレール」 |
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跨座式モノレールの車両が通過しました。 |
「立日橋」を渡って |
15:40 「立日橋」から見る「日野橋」 |
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15:46 「立日橋」を渡り終えて左手に少し入ったこの辺に説明の看板はありました。 |
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大正8年に発効した「日野多摩川の渡船」の絵葉書/ 渡船は大正15年に日野橋が完成するまで使われていた。 |
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15:50 |
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15:58 「新奥多摩街道入口」の信号 |
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15:59 「有山家」と門に掲げてある以下の写真と説明板 |
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16:04 「日野宿本陣」 本陣は16:30まで開館 |
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管理者から室内の詳しい説明があり、「日野宿本陣」の詳細な解説のパンフレットをいただきました。 |
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17:00 「日野宿交流館」を出る。お土産を購入する懐のゆとりはありませんでした。 |
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17:04 「日野市役所入口」 |
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17:05 「八坂神社」 ここでついに私のカメラは電池切れとなりました。 幸いなことに本日の街道めぐりはここまで。JR日野駅には1分もしないで到着しました。 |
失敗続きのスタート |
〇 目覚まし時計を1時間も早くセットしてしまいました! 準備は前日に整えていたので時間を持て余し、新聞やパソコンを見ているうちに家を出る予定の時間を過ぎ、慌てて家を飛び出しました。1台遅れのバスに飛び乗り長後駅へ。 |
〇 駅の階段を駆け上がり、転んでしまいました! 一番上の段にけつまづき、大きくバランスを崩し、前のめりに倒れ、勢いがついていたので否というほど両膝をコンクリートの床にぶつけ、ものすごく痛い思いをしました。 左腕はどこも打たなかったのですが、右腕はピーンと一直線に上の方に伸びて、重い頭も上半身もその上に乘り、右腋の下の筋がびりっと破れたような痛みが走りました。 周囲は通勤途上の男性が多く、ピタリと足を止めたように思われました。 すごく恥ずかしいのと、骨折をしているのではないかという不安とが入り混じった感情の中、倒れたままでいるわけにもいかず、痛いのを堪えて何事もなかったかのようにすっくと立ち上がってみました。 打った痛さ以外の異常は感じず、歩きだしてもズキズキ疼くこともなかったので、脇目も振らずその場を急いで立ち去り、ホームへの階段を下りながらホッと胸を撫で下ろしました。 集合場所に着くまでには、膝の痛みも腋の下のしびれもなくなっていました。 ラッキーな転び方をしたのだなと思っております。 |
〇 この日の楽しみに使うはずのお金がなくなってしまいました! 山綾会の団体保険には全員が加入していますが、前回の山行の時、リーダーから「次回は山の個人保険に入る人はお金を持ってきてください。」と、コピー付きの丁寧な説明がありました。それなのにすっかり忘れてしまって、やらなくてもいいスイカのチャージなどして、手持ちのお金が乏しくなり、昼食代はけちらざるをえず、お土産代も完全になくなってしまいました。 いよいよ“そういう年齢”になってきたのかもしれません。 |
「西光寺」 |
開山は応永年間(1394から1428年)。本堂には多くの彫像があり、なかでも三十三応現身像には江戸時代の最高級の彫技を見ることができます。(調布市HP) 西光寺仁王門の左側に腕をくんで座っている近藤勇像があります。 平成13年(2001)、地元の新選組研究団体「近藤勇と新選組の会」によって建てられました。 西光寺は、旧甲州街道沿いにあり、慶応4年(1868)3月、近藤勇が甲陽鎮撫隊をひきいて甲府へ向かった時も、この寺の前を通りました。 (調布市観光協会) |
「行人塚」 |
解説は消えかかってほとんど読めず、行人塚も見落としましたので、以下の説明と塚の写真は「調布市のHP」を利用させていただきました。 |
この塚は、松前意仙の入定塚(にゅうじょうづか)です。 意仙は元仙台藩士でしたが、出家して諸国をまわり、この地に庵を結びました。意仙は自ら石造の薬師如来像を彫り、大願成就の後、薬師像の傍に穴を掘り、中に入って、鉦をたたきながら、お経を唱えて、そのまま入定(死去)したと伝えられています。 意仙の死後、村人たちによって、塚が築かれました。昭和47年、塚の改修の際に遺骨が確認され、もとどおりに埋葬されました。 |
「大國魂神社」 府中観光協会HPより |
社伝によれば、景行天皇41年(111)5月5日、武蔵国の護り神として大国魂神を祀ったのが始まりとされています。 大化の改新以後、この地に武蔵国の”国府“が置かれて以来、”国司”が祭祀を執り行っていましたが、平安時代に各諸神を合祀する「総社」と呼ばれるものが置かれ、武蔵国では、大國魂神社がその総社となり、さらに、平安末期には著名な六か所の神社を合祀して「武蔵六所宮」と呼ばれるようになりました。武士の世の中になっても広く武将たちの信仰を集め、衰えることがなかったようです。 徳川家康が、関が原の戦いや、大坂の陣の戦勝祈願成就の御礼として馬場を献上し、本殿や拝殿、楼門を修築しています。 明治4年(1871)に武蔵総社大國魂神社と改称し現在にいたっています。 毎年5月の例大祭、くらやみ祭りでは70万人の観光客で賑わいます。 |
「谷保天満宮」と 「牛の像」 |
東日本最古の天満宮であり、亀戸天神社・湯島天満宮と合わせて関東三大天神と呼ばれる。南部鉄道(現JR南武線)が谷保駅の駅名を「やほ」としたため、地名の「谷保」までも「やほ」と言うようになってしまったが、本来の読み方は「やぼ」である。 江戸時代の著名な狂歌師の大田蜀山人(南畝)が、「神ならば 出雲の国に行くべきに 目白で開帳 やぼのてんじん」と詠み、ここから「野暮天」または「野暮」の語を生じたと逸話に伝える。 ウイキペディアより |
(祭神) 祭神は菅原道真 (すがわらみちざね)公とその三男とされる三郎道武公を合祀 ご う ししています。 太宰府に流され、妻子との別れに京の都を離れるときに詠んだ 「東風 (こち) 吹かば にほいおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」は、有名な歌です。 くにたち中央図書館 より |
( 谷保天満宮の座牛 ) 参道石段の下にある。 菅公葬送 のとき、悲しみ動かなくなった牛車の牛を現 します。 昭和48(1973)年関敏の作で す。 くにたち中央図書館 より |
「元青柳村の常夜燈」 |
幾つかの常夜燈を見ましたが、以下は上記の常夜燈の説明文です。 |
この常夜燈には、東側に「榛名大権現」、北側に「正一位稲荷大明神」、西側に「秋葉大権現」、南側に「寛政11年9月 施主村中」などの文字が刻まれていることから、西暦1799年に青柳村の人々が建てたことがうかがえる。 古老が語るところによると、昭和初期ごろまでは、村の人たちが毎晩当番で、ローソクを1本ずつ点す習慣があったという。 |
「日野の渡し碑」の文 |
立川観光協会 撰 関 頑亭 書 |
日野の渡しの出来たのは いつの頃だか誰も知らない 江戸時代中期貞享年間 この地に渡しが移されたことは 確かであろう かつて信濃甲斐相模への人々は この渡しを過ぎると 遠く異境に来たと思い 江戸に向かう人々は 江戸に着いたと思ったという |
「日野宿本陣」 日野市観光協会 |
日野市立新選組のふるさと歴史館分館『日野宿本陣』。 日野宿本陣は都内で唯一残る江戸時代に建てられた本陣建物です。 今の建物は嘉永2年(1849)正月18日の大火で焼失してしまった主屋にかわるものとして建設されました。幕末に日野宿の問屋と日野本郷名主を務めていた佐藤彦五郎が本陣兼自宅として翌元治元年(1864)12月から使用された建物です。 大火をきっかけに自衛の必要を痛感した佐藤彦五郎は八王子千人同心の井上松五郎から天然理心流を紹介され、近藤周助に入門し、自宅に道場も開きました。佐藤彦五郎は卓越した技量からか4年後には免許皆伝をとっています。 この道場には、やがて近藤勇や沖田総司、山南敬助らが訪れるようになり、日野出身の土方歳三・井上源三郎らを交えた新選組と日野の人々との物語の幕が開けられたのです。まだ、この建物が完成する前のことです。 建物は文久3年(1863)4月に上棟され、翌年完成しています。上棟の少し前、同じ文久3年2月には徳川14代将軍家茂が上洛。その警護のために新選組の前身となる浪士組が京都へ向っています。この浪士組に近藤勇や土方歳三、井上源三郎、沖田総司らが参加しています。本陣の建物の準備には10年に及ぶ歳月を費やしたと言いますから本陣建設の槌音を聞きながら、同じ敷地内にあった道場ではのちに新選組になる面々が木剣の音を鳴り響かせていたことになります。 |
「高尾山の咲く花!写真展」に行ってきました。 |
2015/12/17の最終回「高尾山花めぐり Part-8」の時、帰りのケーブルカーの中で、「富士山の四季カレンダー」をいただいた「高尾山の花名さがし隊」の遠藤進さんの「高尾山の花名さがし」販売4,000冊達成記念写真展です。4月13日〜17日に八王子中央図書館で展示されていました。 |
京王相模原線橋本駅 8:29発 大島行 ー 調布駅 8:57着 ・・・ 東府中駅 ・・・ 府中宿 ・・・ 16:04 日野宿・・・ 17:05 JR日野駅
歩行時間:(予定)約5時間
(私の万歩計:37,318歩 携帯電話の万歩計:35,540歩)
自宅到着は7:00p.m.の5分前でした。
参加者:24名(そのうち男性は3名)
リーダー・サブリーダー:筒井さん・鈴木さん